頼みの諸将来らず

明智光秀の誤算

本能寺で織田信長を討ち取った明智光秀は、織田家の諸将はみな、遠くで強敵相手に対陣しているので、すぐには動けまいと見て、その間に畿内を制圧するつもりでいた。

ところが、羽柴(豊臣)秀吉が毛利と和睦、10日目の6月10日(新暦7月9日)には尼崎まで来たと聞いて驚き、近江(滋賀県)から京都に戻り、翌11日には洞ガ峠に登った。大和郡山城主の筒井順慶の来援を促すためだ。

明智光秀は、恐ろしい「鬼」の信長さえ討ち果たせば、古い伝統を尊ぶ武将や寺院が立ち上がり、自分を支援してくれると思い込んでいた。だが、そうはならず、あてにしていた組下大名たちも離れていった。親類の細川藤孝や筒井順慶も来なかった。

光秀の思いとは逆に、大胆な改革で経済と技術を発展させた織田信長は、豪商から庶民にまでに人気があった。このため「主君の仇討ち」を旗印とした羽柴秀吉の方に多くの将兵が集まった。

6月12日、空しく洞ガ峠を降りた明智光秀は、1万6千人の直属軍を天王山の東側に扇形に布陣させた。当時は淀川の川幅が広く、天王山との間はごく狭い。兵力に劣る明智方は、ここを出て来る羽柴方の部隊を各個撃破する作戦だった。

同じ日、羽柴秀吉は摂津の富田に到着、花隈城主の池田恒興、光秀の組下だった茨木城主の中川清秀や高槻城主の高山右近らも参陣した。四国攻めのために和泉にいた信長の三男の信孝や丹羽長秀も加わった。総勢3万数千人、明智勢の二倍以上だ。

翌13日、羽柴方の先手の中川清秀と高山右近が天王山と淀川の間を越えて東側に陣を敷き、秀吉の弟の羽柴(豊臣)秀長もこれに続いた。

明智方はじっとしていられない。申ノ刻(この季節なら午後4時半頃)、天下分け目の決戦は始まった。この日、空は雨雲に覆われて暗く、地は長雨を吸って黒かったという。

本図は、決戦直前の両軍の北側から見下ろした構図。画面右側に羽柴方が、左側に明智方である。

天王山の合戦直前の絵

天王山の合戦直前の絵

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更新日:2017年03月23日