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   大山崎町の観光スポット Scene.1  社寺
 町内各地に点在する社寺。それぞれに長い歴史があり、 古の時代の文化を、今に生きる私たちに伝えています。
 離宮八幡宮
 
      
 
   
 
 平安時代の860(貞観2)年、僧行教が嵯峨天皇の離宮の一郭に九州の宇佐八幡神を勧請して、創建されたと伝えられています。
  やがて、平安時代の末期に当地で荏胡麻を原料にした油の生産が開始されると、鎌倉時代には神人といわれる生産者たちが八幡宮を本所として油座を形成。後嵯峨上皇から仕入れ・製造・販売の独占権を与えられるまでに成長して、大山崎の油は全国にその名を知られることとなりました。
  幕末には、禁門の変の余波で社殿は全焼してしまいましたが、境内にある石柱や数多くある古文書には往時の繁栄ぶりが克明に記されています。
【写真(1)(2)(3)(4)(5)】
 妙喜庵(待庵
 
   
 
   
 
 JR山崎駅前に、風景に溶け込むようにひっそりと建つ妙喜庵。室町時代の後期に、西側に隣接していた地蔵寺に属する塔頭の一つとして春岳士芳によって創建されました。
  当庵には、千利休が建て、現存する唯一の茶室と言われる国宝の「待庵」があります。山崎の合戦後、秀吉が山崎城を築城して一時の本拠としたことに伴い、千利休も堺から大山崎に移って山崎屋敷にこの茶室を設けました。その後、現在の場所に移築されたと伝えられています。
  数寄屋造りの原点と言われる「待庵」の室内は、二畳という極小の空間でありながら、天井や床の間、窓に様々な工夫が施され、空間的な広がりを感じさせてくれます。
【写真(6)(7)(8)(9)】
 宝積寺
 
      
 
 聖武天皇が勅願し、僧行基が建立したと伝えられています。多くの文化財を有していることで知られていますが、特に「木造閻魔王坐像」は国の重要文化財にも指定されており、その姿は観るものを圧倒する迫力を持っています。
  また、山道沿いに立つ三重塔は、秀吉の命で一夜にして建てられたとの言い伝えがあり、「一夜之塔」の別名でも親しまれています。
【写真(10)(11)(12)】
 観音寺(山崎聖天
 
   
 
 
 平安時代に宇多法皇によって創建され、江戸時代初期に木食以空上人によって再興されたと伝えられています。朝廷や徳川家からも帰依され、今日でも現世利益を願う信者をはじめ、商売繁盛を願う京阪神の人々からも厚い信仰を集めています。
  天王山の東山腹に所在し、お寺に続く長い石階段や背面に迫る天王山が、荘厳な雰囲気を演出しています。
  境内にある建物は禁門の変の余波で大半が焼失しましたが、明治時代になって再建され現在の姿に。広大な境内地の東側には昭和初期に植えられた桜があり、今日では京都の桜の名所として広く知られるようになりました。【写真(13)(14)(15)】
 自玉手祭来酒解神社
 
 
 天王山山頂近くに所在し、江戸時代以前には天神八王子社という名で呼ばれていました。祭神として牛頭天王らを祀り、これが天王山の名前の由来になったとも伝えられています。
  現存する本殿は幕末期の火災後に復興されたもの。その本殿の南側に隣接する、日本で最古の板倉造りの「神輿庫」は鎌倉時代に建立されたもので、国の重要文化財にも指定されています。【写真(16)】
 小倉神社
 
   
 
 
 天王山の北の登り口に面し、うっそうと茂る竹林に囲まれたこの神社は、奈良時代初期の創建と伝えられています。
  境内の北東には、かつて小泉川流域の地域を支配していたと思われる人物を埋葬した鳥居前古墳がありますが、その被葬者がやがて神格化され小倉神社が誕生したのではないかと考えられています。【写真(17)(18)(19)】
 大念寺
 
 
 浄土宗知恩院派の末寺で、室町時代後期に徳誉光然によって開創されました。国の重要文化財に指定されている「木造阿弥陀如来立像」は鎌倉時代に彫られたものと考えられており、約81センチメートルの小さな仏像ながら、観るものを惹き付ける魅力があります。 【写真(20)】
  円明教寺
 
 
 真言宗東寺派に属する山寺。かつては円明寺という広大な寺で、近隣には往時の名残と思われる薬師前、大門脇などの寺関係と思われる地名が残っているほか、近くにある御茶屋池は、その庭園の池であったと伝えられています。藤原定家の「明月記」の記事から、鎌倉時代には既に広く知られた寺であったことが分かっています。【写真(21)】
 
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