HOME > 天王山に宿る歴史
   大山崎町の観光スポット Scene.4   天王山に宿る歴史
 「天下分け目の天王山」として、全国的にもその名を知られる天王山。古の時代から刻まれてきた数々の歴史が、この山には宿っています。
 
      
 
 
戦国末期、天下取りへの足がかりを掴んだ秀吉。夢破れた光秀。

  天王山には、羽柴秀吉と明智光秀による山崎合戦の様子を描いた、大きな陶板が設置されています。この陶板は、アサヒビール大山崎山荘美術館の入り口から天王山山頂にかけてのハイキングコースに設置されており、その間の道は「秀吉の道」として広く登山客に親しまれています。
  ハイキングコースの7合目付近には、山崎合戦のときに、秀吉が味方の士気を高めるために樹上高くに千成ひょうたんの旗印を掲げたと伝えられている旗立松があります。現在、松は6代目となりましたが、当時の情景をしっかりと今に伝えています。その旗立松の横には、古戦場を見渡せる展望台が。台の正面には当時の両軍の配置図が設置されています。400年以上前の合戦の様子を想像して、現代の風景に重ねてみるのも面白いかもしれません。
  山頂には、合戦に勝利した秀吉が築いた山崎城の跡が残っています。ほんの2年足らずで取り壊されてしまったと伝えられており、現在は、井戸や石垣などの跡がわずかに残るだけですが、そこからは確かに人工的に造られたものであることを感じることができます。


写真 (1)天王山山頂に残る山崎城跡 (2)旗立松 (3)旗立松展望台からの眺め 
    (4)「山崎合戦之地」石碑 (5)山崎合戦の様子が描かれた陶板
 
 
幕末、禁門の変で敗れた十七烈士が眠る場所。

  山頂にほど近く、うっそうと茂る木々に囲まれた場所に、十七烈士の墓はあります。1864年、禁門の変を起こした首謀者の一人真木和泉守は幕府軍に敗れ、最後は天王山で、同士16名とともに自害しました。政変は失敗したものの彼らの志は生き続け、この4年後、新政府が誕生することとなりました。
  この禁門の変では、社寺や民家など70以上の建物が焼失するなど、大山崎も大きな被害を受けました。


写真 (6)十七烈士の墓
 
トップページへ戻る    次ページへ