本能寺の変

「鬼」信長を討った「人」光秀

天正10年(1582年)、織田信長の天下統一は、まさに成らんとしていた。その信長が、旧暦6月2日(新暦では7月1日)未明、京都本能寺で家臣の明智光秀に襲われ殺害された。史上に名高い「本能寺の変」である。

31年前、18歳で尾張(愛知県西部)の小さな大名の地位を継いだ織田信長は、銭で傭う兵を設け、誰でも商いのできる楽市楽座を進め、自分一人の判断で政治を行うようにした。兵農分離、貨幣経済、独裁政治の三つを柱とする新しい仕組みである。

古くからの習慣や身分を大切に思う人々は、これに反対、信長の敵になった。だが、信長は挫けず、新しい仕組みの利点を活かして鉄砲や築城の技術を取り入れて強力な軍隊をつくり上げた。

このため、天正10年初夏には、織田信長の領地が天下の半分を占めるまでになっていた。天下統一を急ぐ信長は、有能な人材を抜擢して各方面の大将とし、その下に大小の大名を付ける組織をつくった。北陸は柴田勝家、関東は滝川一益、中国は羽柴(豊臣)秀吉、新しくはじめる四国攻めには丹羽長秀、といった具合だ。図は「本能寺の変」直前の織田信長とその相手方を描いたものである。

そんな中で、明智光秀だけは持ち場がない。手柄を立てたい光秀は、不満だった。古い伝統や人脈を尊ぶ常識的な「人」光秀には、合理性に徹した改革を進める信長が「鬼」のような独裁者にみえた。天正10年5月、中国攻め総大将の羽柴秀吉は、備中(岡山県)高松城を攻めた。毛利方も高松城を助けようと総力を挙げて出陣してきた。それを知った織田信長は、自ら出陣すべく安土から京都に入り、わずかな供回りだけを連れて本能寺に宿泊した。

一方、信長出陣の先駆けを命じられた明知光秀は、丹波亀山(京都府)で1万6千人の軍勢を揃え、中国に向かうと称して出発したが、途中で方向を変えて本能寺を急襲、あっという間に織田信長を討ち取った。世界の歴史にも珍しい劇的な事件である。

当時の勢力図

当時の勢力図

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更新日:2017年03月23日