淀川とともに生きる はるかなる淀川

まず、川があった。

淀川は、京都盆地に集まる桂川、宇治川、木津川が合流して形成される、大山崎町の暮らしの風景に欠かせない川だ。

淀川の歴史を古代までさかのぼってみよう。

奈良時代には、僧・行基が山崎橋という橋をかけ、国の手で管理されていたが、この橋は洪水の被害を受けることが多かったという。 十一世紀には廃絶し、その後、豊臣政権下で一時復活したといわれるが、今日に至るまで橋の再建は行われていない。

延暦3(七八四)年、長岡京という都ができ、都の中心地である現在の向日市まで、前の都であった難波宮や各地から多くの物資が運ばれた。この頃山崎津という港が造られた。当時の運輸は水運が中心だったため、平安時代を通じて、大山崎には多くの国家的施設があり、さまざまな人々が当地を訪れた。

京都と大阪を結ぶ大動脈。中世になると、大山崎では油の専売権を獲得した神人たちが活躍し、自治都市として幕府から保護されていた江戸時代には物資や旅人の輸送にあたっていた三十石船、淀川荷船という二十石船などが淀川を航行し、沿岸の荷揚げ場は流通の重要な拠点となっていた。

その一方で、淀川とともに発展してきた大山崎には、大きな課題があった。それは、しばしば起こる洪水からいかに田畑や家々を守るかということだ。

秀吉や徳川幕府によって堤防工事が実施されたが、なかなか効果が上がらず、村の中での悪水被害も深刻な問題となっていた。明治に入ると新政府はさっそく木津川の付け替えなど治水工事に着手した。

明治二十九年に河川法が制定されてからは、河川に対して国が強い権限を持てるようになり、淀川改良工事が行われた。この工事は明治四十三年でいったん終了したが、大正七年から新たに増強工事が始まり、昭和五年にほぼ竣工した。

このときに、桂川・宇治川・木津川の三川合流点が現在の位置にほぼ定まった。中世以降、山崎から対岸の橋本までは渡し船が利用されていた。この山崎の渡しは昭和三十七年まで続いたが、今は堤防を下る石段のみが往時の姿をとどめている。

淀川は、今も私たちの生活とともにある。そしてこの流れは、まちの発展とともにはるかな未来へと続いていくのだろう。

淀川河川工事の様子
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更新日:2017年03月23日