秀吉の道 陶板絵図

(Way of Hideyoshi picutures made on ceramic plates)

天王山は豊臣秀吉の天下取りの物語の中でも、「天下分け目」の決戦場として広く知られており、現在では手軽なハイキングコースとして、観光シーズンには特に多くのハイカーのみなさんが訪れています。    
大山崎町では、このハイキングコースを「秀吉の道」と名づけ、秀吉の天下取りの物語を解説する案内板を設置しました。    
案内板の数は全部で6カ所。いずれも絵画と解説文があり、美しい陶板で製作されています。    
高さ1.8メートル、幅は5メートルを超えるものもあり、合戦の絵図などは、さながら壮大な絵巻物を見るようです。    
原画となったのは、日本画家である岩井弘さんによって描かれた屏風絵図で、当時の戦国武将や合戦の様子などが、迫力あるタッチで表現されています。    
また解説文は、人気作家でもある経済評論家・堺屋太一さんによるものです。史実をふまえながらも新たな視点で描かれ、魅力あふれる解説文になっており、英文でも注釈が添えられています。    
「秀吉の道」は、天王山のふもとにあるアサヒビール大山崎山荘美術館付近から始まって、宝積寺を通り、三川合流展望広場、旗立松展望台、酒解神社、そして天王山山頂広場へと続いています。秀吉の天下取りの物語を描いた陶板絵図はこのコースに沿って設置されています。    
陶板は、まず明智光秀の謀反「本能寺の変」に始まり、「中国大返し」「山崎の合戦」などを経て、山頂の「秀吉の覇権」で完結します。最後の陶板絵図「秀吉の覇権」では、天下統一を果たした覇者としての威厳をもった秀吉が描かれています。    
これらの美しい陶板を鑑賞しながら、天王山の歴史ハイキングを楽しんでみてください。きっと、戦国時代にタイムスリップした気分になることでしょう。

本能寺の変

「鬼」信長を討った「人」光秀

天正10年(1582年)、織田信長の天下統一は、まさに成らんとしていた。その信長が、旧暦6月2日(新暦では7月1日)未明、京都本能寺で家臣の明智光秀に襲われ殺害された。史上に名高い「本能寺の変」である。

31年前、18歳で尾張(愛知県西部)の小さな大名の地位を継いだ織田信長は、銭で傭う兵を設け、誰でも商いのできる楽市楽座を進め、自分一人の判断で政治を行うようにした。兵農分離、貨幣経済、独裁政治の三つを柱とする新しい仕組みである。

古くからの習慣や身分を大切に思う人々は、これに反対、信長の敵になった。だが、信長は挫けず、新しい仕組みの利点を活かして鉄砲や築城の技術を取り入れて強力な軍隊をつくり上げた。

このため、天正10年初夏には、織田信長の領地が天下の半分を占めるまでになっていた。天下統一を急ぐ信長は、有能な人材を抜擢して各方面の大将とし、その下に大小の大名を付ける組織をつくった。北陸は柴田勝家、関東は滝川一益、中国は羽柴(豊臣)秀吉、新しくはじめる四国攻めには丹羽長秀、といった具合だ。図は「本能寺の変」直前の織田信長とその相手方を描いたものである。

そんな中で、明智光秀だけは持ち場がない。手柄を立てたい光秀は、不満だった。古い伝統や人脈を尊ぶ常識的な「人」光秀には、合理性に徹した改革を進める信長が「鬼」のような独裁者にみえた。 天正10年5月、中国攻め総大将の羽柴秀吉は、備中(岡山県)高松城を攻めた。毛利方も高松城を助けようと総力を挙げて出陣してきた。それを知った織田信長は、自ら出陣すべく安土から京都に入り、わずかな供回りだけを連れて本能寺に宿泊した。

一方、信長出陣の先駆けを命じられた明知光秀は、丹波亀山(京都府)で1万6千人の軍勢を揃え、中国に向かうと称して出発したが、途中で方向を変えて本能寺を急襲、あっという間に織田信長を討ち取った。世界の歴史にも珍しい劇的な事件である。

秀吉の中国大返し

勝負を決めた判断と行動

天正10年6月2日(新暦1582年7月1日)未明、明智光秀は京都本能寺に織田信長を襲撃、近くの二条城に居た長男の信忠と共に討ち果たした。

その頃、織田家の有力武将は、遠く離れたそれぞれの持場で強力な敵と相対していた。羽柴(豊臣)秀吉は、はるか西の備中(岡山県)にいた。

秀吉は雑用人として織田信長に仕えて以来20数年、機転と勇気で様々な手柄をたてて出世。5年前に強敵毛利家と戦う中国攻めの総大将に任じられてからは、才気とねばりで大きな戦果を挙げた。 天正10年5月、秀吉は、いよいよ毛利家に止めを刺すべく山陽の要衝、備中高松城を攻め、水攻めの奇策によって陥落寸前にまで追い詰めた。毛利方も高松城を見殺しにできず、全力を挙げて救援にきた。それを知った信長は、自ら出陣、一気に毛利勢を撃滅することにした。秀吉は、主君信長の天下統一が間もなく完成すると信じていた。

ところが、6月3日の夜、その信長が京都本能寺において明智光秀に殺害されたことを知らされた。光秀の使者が闇夜で道を誤り、毛利方に届ける書状を持って秀吉の陣に迷い込んだのだ。 秀吉は主君の死を悼んで大声を上げて泣いた。だが、すぐ次には直ちに上方に駆け戻り明智光秀と天下を駆けて戦うことを決断、夜明けまでに毛利方との和睦を成り立たせた。

翌5日を和睦の儀式や兵糧の撤収に費やした秀吉は、6月6日、中国街道を駆けぬけ、2日後には約70キロ東の姫路城に戻った。世に言う「秀吉の中国大返し」である。

季節は梅雨時、雨が降り続いて行軍は難渋したが、秀吉軍は姫路で軍備の点検に一日を費やしただけで東に進み、6月10日には早くも摂津の尼崎に到着した。

羽柴秀吉が瞬時にして下した的確な判断と迅速な行動、それによって天下争覇の勝負は決した、といえるだろう。

頼みの諸将来らず

明智光秀の誤算

本能寺で織田信長を討ち取った明智光秀は、織田家の諸将はみな、遠くで強敵相手に対陣しているので、すぐには動けまいと見て、その間に畿内を制圧するつもりでいた。 ところが、羽柴(豊臣)秀吉が毛利と和睦、10日目の6月10日(新暦7月9日)には尼崎まで来たと聞いて驚き、近江(滋賀県)から京都に戻り、翌11日には洞ガ峠に登った。大和郡山城主の筒井順慶の来援を促すためだ。

明智光秀は、恐ろしい「鬼」の信長さえ討ち果たせば、古い伝統を尊ぶ武将や寺院が立ち上がり、自分を支援してくれると思い込んでいた。だが、そうはならず、あてにしていた組下大名たちも離れていった。親類の細川藤孝や筒井順慶も来なかった。

光秀の思いとは逆に、大胆な改革で経済と技術を発展させた織田信長は、豪商から庶民にまでに人気があった。このため「主君の仇討ち」を旗印とした羽柴秀吉の方に多くの将兵が集まった。

6月12日、空しく洞ガ峠を降りた明智光秀は、1万6千人の直属軍を天王山の東側に扇形に布陣させた。当時は淀川の川幅が広く、天王山との間はごく狭い。兵力に劣る明智方は、ここを出て来る羽柴方の部隊を各個撃破する作戦だった。

同じ日、羽柴秀吉は摂津の富田に到着、花隈城主の池田恒興、光秀の組下だった茨木城主の中川清秀や高槻城主の高山右近らも参陣した。四国攻めのために和泉にいた信長の三男の信孝や丹羽長秀も加わった。総勢3万数千人、明智勢の二倍以上だ。

翌13日、羽柴方の先手の中川清秀と高山右近が天王山と淀川の間を越えて東側に陣を敷き、秀吉の弟の羽柴(豊臣)秀長もこれに続いた。 明智方はじっとしていられない。申ノ刻(この季節なら午後4時半頃)、天下分け目の決戦は始まった。この日、空は雨雲に覆われて暗く、地は長雨を吸って黒かったという。 本図は、決戦直前の両軍の北側から見下ろした構図。画面右側に羽柴方が、左側に明智方である。

天下分け目の天王山

勝負は川沿いで決まった

「天王山」といえば「天下分け目の大決戦」の代名詞となっている。しかし、実際の合戦は、天王山の東側の湿地帯で行われ、勝負を決したのは淀川沿いの戦いであった。

天正10年6月13日(新暦では1582年7月12日)申ノ刻(午後4時半頃)、天王山の東側に展開した明智勢が、羽柴(豊臣)秀吉方の先手、中川清秀、高山右近、羽柴秀長らの諸隊に攻めかかった。天王山と淀川の間の狭い道を出て来る羽柴方を各個撃破する作戦である。

だが、戦いは明智光秀の思い通りには進まなかった。天王山の東側には油座で知られる山崎の町があり、その東側には広い沼地が広がっていた。この地形が双方の行動を制約、斎藤利三、並河掃部、松田太郎左衛門らの精鋭を連ねた明智方の猛攻でも、羽柴方の先手を崩すことができなかった(画面右下)。 その間に、淀川沿いでは羽柴方の池田恒興、加藤光泰、木村隼人らの諸隊が進攻、円明寺川の東側にも上陸した。川沿いの明智方は手薄で、ここを守る伊勢与三郎、御牧三左衛門、諏訪飛騨守らはたちまち苦戦に陥った(画面上方)。

羽柴秀吉が本陣の大部隊と共に天王山の東に出たのは、合戦がはじまって半刻(約1時間)ほど経った頃だ。この図はその直後の戦場を、北から南向きに描いている。画面左側の水色桔梗の幔幕に囲われた光秀の本陣では、後退する味方の様子に不安な気分が現れている。右側の秀吉の本陣では勝利の確信が拡がり、貝を吹く足軽まで自身と勇気に溢れている。

画面右上では、参陣の遅れた丹羽長秀が山崎の木戸を通り過ぎようとしている。 天下分け目の決戦は、日暮れた後に終わった。破れた明智光秀は勝龍寺城(画面左側)に逃げ込んだ。その頃、秀吉は天王山に登って戦場を見下ろしたかも知れない。闇に包まれた戦場跡には、負傷者を援ける松明が無数に揺れ動いていたことだろう。

明智光秀の最期

古い常識人の敗北

天下分け目の合戦は、一刻半(約三時間)ほどで終わった。明智勢は総崩れとなり、総大将の明智光秀は勝龍寺城に逃げ込んだ。 だが、ここは小さな平城、到底、羽柴(豊臣)秀吉の大軍を支えることはできない。明智光秀は、夜が更けるのを待って少数の近臣と共に勝龍寺城を脱け出し、近江坂本城を目指して落ち延びようとした。坂本城は明智家の本拠で光秀の妻子もいた。

しかし、山科小栗栖にさしかかった時、竹薮から突き出された竹槍に刺されて重傷を負い、その場で自刃して果てた。当時は、普通の村人でも落ち武者狩りに出ることが珍しくなかった。光秀を刺したのも、そんな落ち武者狩りの一人だった。享年55歳、当時としては初老というべき年齢である。

これより15年前、足利義昭の使者として織田信長と相まみえた明智光秀は、詩歌にも礼法にも詳しい博識を買われて織田家の禄を食むことになった。それからの出世は早く、僅か4年で坂本城主になり、やがて丹波一国を領地に加えて織田家屈指の有力武将にのし上がった。織田信長と将軍になった足利義昭とが不和になった際には、いち早く信長方に加担、細川藤孝らの幕臣を口説いて信長方に転向させた功績が信長に高く評価されたのだ。

だが、光秀は、信長の改革の過激さに反発を感じ出した。古い常識にこだわる知識人の弱さ、というものだろう。

一方、山崎の合戦で勝利した羽柴秀吉は、時を移さず明智光秀の領地を占領、丹羽長秀や池田興恒ら織田家の重臣たちを配下に加え、「次の天下人」への道を駆け登る。 この間、織田家の他の重臣たちは容易に動けなかった。みな前面には強敵がいたし、背後では土一揆が蜂起した。信長の死と共に、織田領全体に混乱が生じていたのだ。

世はいまだに乱世、将も民も、野心と危険の間で生きていたのである。

秀吉の「天下への道」はここからはじまった

秀吉と利休

山崎の合戦で光秀を破った羽柴(豊臣)秀吉には、織田信長に代わる「次の天下人」との期待が集まり、織田家の家臣の大多数も、秀吉の命令に服するようになった。

これに対して柴田勝家は、滝川一益らと組んで信長の三男の神戸信孝を担ぎ、秀吉の天下取りを阻もうとした。しかし、丹羽長秀や池田恒興らと結んで次男の北畠信雄を取り込んだ秀吉の優位は揺るがず、翌天正11年(1583年)4月の賤ケ岳(滋賀県)の合戦は、秀吉の圧勝に終わった。 柴田勝家らの勝利した秀吉は、天下統一の象徴として、大坂の地に巨城を築いた。天正11年に着工したこの城は、天下の政治を行う天下城、つまり首都機能の所在地だった。秀吉は城の縄張りを黒田官兵衛孝高に、襖絵を狩野永徳一門に、接遇演出は茶頭の千宗易(利休)に委ねた。信長は美意識の面でも独裁者だったが、秀吉は専門家の意見を尊重した。

秀吉は、過激な改革を目指した信長とは異なり、有力大名には元からの領地を残しつつ自分の政権に編入する方針を採り、毛利輝元や上杉景勝らとも和睦して天下統一を急いだ。信長が絶対王制を目指したのに対して、秀吉は中央集権と地方分権を組み合わせた封建社会を築こうとしたのである。 やがて朝廷から豊臣と姓を頂いた秀吉は、関白、太政大臣になり、天正18年(1590年)の小田原の役によって天下統一を完成する。

秀吉は、政治的に天下を支配しただけではなく、経済の面でも大坂を中心とした物資と金銭の流通を把握した。文化の面でも茶道や囲碁将棋などに全国的な家元制度を芽生えさせた。これらは徳川幕府に引き継がれ、日本独特の「型の文化」を創り出すことになる。

秀吉のきらびやかな天下。-それはこの天王山の東側で行われた合戦からはじまったのである。

更新日:2017年03月31日