梶原台場

タカラちゃん       あ!ホタルちゃん!こんにちは。

ホタルちゃん       こんにちは!タカラちゃん。今日は梶原のほうへいってきたんだ。

タカラちゃん     またブラブラしてきたんだね。

         梶原って、高槻市の東端の地名だね。

ホタルちゃん     西国街道で、大山崎とつながっているところだよ。

タカラちゃん     場所はわかるよ、そこって昔台場って言われた場所だよね。そもそ

         も「台場」ってなんだろう?

ホタルちゃん     東京で、よく「お台場」っていうよね。あの台場は、幕末に幕府が

         築いた砲台のことなんだ。19世紀の半ば、欧米列強の黒船が日本に

         やってきたのは知ってる?

タカラちゃん       うん。

ホタルちゃん       黒船は、今で言う戦艦のことで、たくさんの大砲を備えていたん

         だ。それを防ぐために台場が築かれたんだよ。当時の日本は大砲の

             知識や技術が遅れていたから、欧米から学んだらしいよ。

タカラちゃん     ああ、黒船は知ってる。ペリーの来航という話だね。

ホタルちゃん     そう、嘉永6年(1852)6月、アメリカ合衆国のペリー提督が

         来航して、開国を迫ったんだ。それまで日本は、外国との貿易を

         長崎のみに制限してたんだ。ペリーは二度目の来航で、

         日米和親条約を結ばせて、貿易港を増やしたんだ。

タカラちゃん     他の国はどうなの?

ホタルちゃん     そうなると、今度はロシア帝国(当時)も同じように日本と条約を

         結んで、貿易港を増やそうと考えたんだ。嘉永7年にはロシアの

         プチャーチン提督が黒船で大阪湾に乗り込んできた。これを見て

         当時の人々は黒船が淀川を遡って、天皇のいる京都まで入ってくる

         のではないか、と心配するようになったんだよ。そこで、京都を

         警護するために、台場を築くことが決まったんだ。

タカラちゃん     どこに造ったの?

ホタルちゃん     一つは、楠葉台場(枚方市)。淀川沿いに砲台を据えていたんだ

         よ。淀川を遡る船を想定して造ったらしいんだ。

タカラちゃん     えっ、黒船が淀川を遡ることができるの?

ホタルちゃん     いや、淀川は浅いから、大きな黒船は上ってこれないんだよ。

タカラちゃん     それじゃ、台場を造る意味がないんじゃない?

ホタルちゃん     当時の人たちも実は黒船が淀川を遡航できないことを知ってたん

         だ。その代わり、京-大坂街道をまげて、台場の中に街道を入れ

         て、通行人を監視する役割を担おうとしたんだよ。立派な台場を

         造ったけど、これはカモフラージュで、本当は関所のような役割が

         期待されていたんだ。

タカラちゃん  で、誰を監視するの?

ホタルちゃん     これを築いたのは京都を守っていた京都守護職の会津藩(福島県の

         一部)なんだ。当時は、天皇を尊んで、外国を排撃しようと考える

         尊王攘夷派の武士たちがたくさん現れてね。特に長州藩(山口県)

         は、その中心となっていて、直接朝廷と関係を結ぼうとしていたん

         だ。そうした政治の世界を統制するため、幕府は会津藩を京都へ呼

         んで、守らせていたんだよ。当時、尊王攘夷派の武士たちには、

         過激な発想から治安を乱すのでは、と警戒され、取り締まりの対象

         となっていたからね。

タカラちゃん     じゃ、もう一つのこの梶原台場も、同じ幕末の時期に

                         築されたんだね?

ホタルちゃん     そう、この梶原台場は、元治元年(1864)3月に、西国街道沿い

                         に工事が着工したんだよ(図1)

 

梶原台場関門絵図

(図1)梶原台場関門絵図

ホタルちゃん   稜堡(りょうほ)(砲座の土台)と半月堡(はんげつほ)(馬出)を築いた本格的な

         台場だった。そして、楠葉と同じく、わざわざ西国街道に新しい

         道を築いて、台場の中を通したんだ。慶応元年(1865)に完成し

         たんだよ。

タカラちゃん     でも、ちょうど造っている頃、尊王攘夷の長州藩が京都に攻め上っ

         てくるよね?

ホタルちゃん     そう元治元年(1864)の禁門の変のことだね。大山崎にも長州藩

         が立て籠もったんで、会津藩によって町が燃やされてしまったんだ

         よ。その時は、まだ台場は築造途中だった。

タカラちゃん     じゃ、長州藩は工事の様子を見たかもしれないね。

ホタルちゃん     興味深いのは図2なんだ。

関門道筋御改絵図

(図2)関門道筋御改絵図

      これは禁門の変の頃の西国街道沿いを描いた古地図なんだけど、

      左手には西国街道の「新道」と「関門御築地」と書いてあり、台

      場の中を街道が走っている様子が図示されているよね。まだ台場

     は完成してなかったけど、工事がかなり進んでいたことがわかね。

タカラちゃん      でも、これらの資料はどうやって残ってきたの?

ホタルちゃん      これらの古地図は、大山崎の社役人だった家に残っていたんだ。

          社役人というのは、当時の大山崎の行政の実務を担っていた人た

         ちで、一般の町人身分から構成されていたらしい。梶原というところ

         は大山崎の近くだし、同じ西国街道沿いだから、何らかの形で、

         こうした資料を手に入れたり、写し取ったりしていたことがわかる

         ね。近くで起こったことだから、大山崎の人々も関心が強かったん

         だ。

タカラちゃん     幕末って、つい160年前のことだけど、まだ知られていないこと

         が多いんだね。

ホタルちゃん     当時の大山崎の人々は、会津藩か、長州藩か、特に思い入れは

         なかったと思うけど、やっぱり台場構築によって西国街道沿いの

         集落は大きな影響があったんだろうね。

タカラちゃん       きっとそうだね。ありがとう勉強になったよ。時間があったら行っ

         てみよう。

ホタルちゃん   またね。

更新日:2021年02月22日